カート・コバーン(Kurt Cobain, 1967年2月20日 – 1994年4月5日) – vocals, guitar
日本で言われる、「コバーン」は原音の発音からは完全にかけ離れており、カタカナ表記ではコベインがもっとも近い。 1990年代を代表するワシントン州シアトルの伝説的グランジ/オルタナティブ・ロックバンド、ニルヴァーナ (Nirvana) でボーカルとリードギターを担当し、グランジの金字塔的アルバム『ネヴァーマインド-Nevermind』の成功で一躍ロック・スターの仲間入りを果たすものの、自身の本来の姿とロック・スター的イメージとのギャップに葛藤、ドラッグと精神病に悩まされ、1994年自宅にてショットガンで自殺。27歳没。
ローリング・ストーン誌の2003年8月号のカバーストーリー、「ローリング・ストーンの選ぶ歴史上最も偉大な100人のギタリスト」に於いて第12位。2007年11月号の企画、「ローリング・ストーンの選ぶ歴史上最も過小評価されている25人のギタリスト」に於いて第2位。日本版2009年2月号の企画、「ローリング・ストーンの選ぶ歴史上最も偉大な100人のシンガー」に於いて第45位。
<ニルヴァーナ以前>
1967年2月20日、アイルランドおよびフランス系の自動車整備工ドナルド・リーランド・コベインと、イングランド、アイルランドおよびドイツ系のウェイトレスのウェンディ・フレイデンバーグ夫妻の間に誕生[1][2][3] 。ビートルズが大好きで、絵の上手な少年だったという。1975年に夫妻が離婚するまで幸せな少年時代を送るが、その離婚は少年時代のカートに大きな衝撃を与えた。カートはその後も父親に棄てられたという感覚を拭い去ることができなかったという。その影響からかカートは内向的で、引きこもりがちな少年となる。
離婚後、最初は父の元へ引き取られ、トレーラーハウスの中で、ブラック・サバス、レッド・ツェッペリン、エアロスミス等を聴いており、その音楽が自身の音楽に強く影響を与えた、と後に何度もインタヴューで語っている。
学校では友達を作らず、主にチャールズ・ブコウスキー等の作家の作品を図書館で借り、それを読んで過ごしていたらしい。その中でウィリアム・バロウズの『裸のランチ』と出会い、後の人生、歌詞、両面において強い影響を受ける。彼とは晩年、対談、バロウズのポエトリーディングとカートのフィードバックギターによる競演、それのCD化を果たしている(『the “Priest” they called him』)。
ハイスクール在学中、パンクバンド、メルヴィンズのリーダー、バズ・オズボーンと出会う。バズ・オズボーンから貰ったテープ(ブラック・フラッグ、ミリオンズ・オブ・デッド・コップス、フリッパー等が入っていた。その中の、ブラック・フラッグによる「ダメージドII」、フリッパーによる「サクリファイス」に強く衝撃を受けた、と後のインタヴューで語っている)を聞きパンク・ロックに興味を抱き、音楽を始める。最初のギターは14歳の時に質屋で買ったもので、当初はAC/DC、レッド・ツェッペリンなどを練習していた。
<クリスとの出会いニルヴァーナ結成『ネヴァーマインド』>
高校のクラスメイトの音楽的才能は決してカートのそれと見合うものではなく、時にそれが彼を大いに苛立たせた。また、彼が演奏したかったのはパンク・ロックであったのに対し、周囲の人間は未だ80年代ヘヴィメタルの呪縛から抜け出せずにいたことも、彼にとって大いに気に入らない点であった。そんな苛立ちからか次第に周囲との折り合いが悪くなり高校をドロップアウト。しかし、中退した高校で掃除夫などで働き始める。
そんな中、カートは同じくパンク・ロックを愛好するクリス・ノヴォセリックと出会う。音楽の趣味、周囲への不満など、意気投合、一年後バンド結成にいたる(後のインタビューでクリスは、この一年の空白について、自分がカートから渡されたデモテープをなかなか聴かなかったためだ、と語っている。)
当初クリスはカートとバンドを組むことを渋ったが、カートの前バンドFecal Matterのデモ・テープを聴き、バンドを組むことを了承し、新バンド名は「ニルヴァーナ-Nirvana」(=涅槃)と決まった。
(バンド名の変遷は、フィーカル・マター、ペン・キャップ・チュー、テッド・アルフレッド等に名前を変え、最終的にニルヴァーナに落ち着くことになる。)
ドラムにチャド・チャニングを迎えて1989年、インディーズ1stアルバム『ブリーチ』がサブ・ポップレーベルでレコーディングされ、カートはチャドのドラミングを気に入らず彼を解雇する。その後メンバーがなかなか固定しなかったが、オーディションでデイヴ・グロールをドラマーに迎え、よく知られているメンバーのラインナップがそろう。1991年にメジャー1stアルバム『ネヴァーマインド』が録音された。
<商業的成功と精神的苦境>
1991年の『ネヴァーマインド』発売はまさに当時のアメリカ音楽界にとって衝撃であった。『ネヴァーマインド』は80年代ヘヴィメタルの栄光に終止符を打ち、一夜にして「グランジ」が新たなアメリカ音楽界のトレンドとなった。ニルヴァーナを筆頭に、パール・ジャムや、アリス・イン・チェインズ、サウンドガーデンなどのグランジバンドは新たな若者達のヒーローとして祭り上げられ、シアトルは急激にアメリカでもっとも「ホットな」都市となった。
このようになんと彼らはメジャーデビュー1枚目のアルバムから大成功を収めたが、カートは『ネヴァーマインド』の成功に葛藤を感じていた。もともとアンダーグラウンドなシーンをルーツとするカートは、この大成功によって自身の信念を結果的に裏切ってしまったように感じていたし、メディアの伝える彼の姿と自分の本来の姿との乖離に大きな戸惑いを感じてもいた。また、カート自身『ネヴァー・マインド』製作の際、ある程度メジャー市場を意識して曲作りを行ったため、自分自身にも強い憤りを感じていた。そのため、プロデューサーにスティーヴ・アルビニを迎え制作されたアルバム『イン・ユーテロ』は前作のメジャー志向からアンダーグラウンド志向へと回帰したものとなったが、賛否両論のアルバムとなる。その後も自身のイメージや思い通りに曲が作れない苛立ち、また、少年時代からのうつ病、さらにはドラッグ依存症と悪戦苦闘し、ローマでの自殺未遂を経た末、1994年4月5日、シアトルの自宅で27歳で自ら命を絶った。遺書には、強烈な筆圧でニール・ヤングの「ヘイ・ヘイ・マイ・マイ」の歌詞の一部「It’s better to burn out than to fade away」(錆びつくより今燃え尽きる方がいい)が引用されている。また、ステレオがつけっぱなしになっていた。 27歳没、これはブライアン・ジョーンズやジミ・ヘンドリックス、ロバート・ジョンソン、ジム・モリソンや、ジャニス・ジョプリンが亡くなった年齢と一緒であり、カートの母は「あの子は愚か者のクラブに仲間入りしてしまった」と嘆いたという。
<後進への影響>
アルバム『ネヴァーマインド』(1991)の成功後も音楽業界の商業主義やマスメディアの誇張報道などに反発し、社会に求められた偶像としてではなく、ありのままの自分を常に表現するスタンスを保ち続けた姿勢は、「グランジの精神」として後進に強い影響を与えた。彼が好んで聴いていた数々のバンドの曲が話題になり、例としてヴァセリンズやミート・パペッツはバンド・作品ともに注目されることになる。ライブでも共演を果たしている。「スメルズ・ライク・ティーン・スピリット」の爆発的ヒットによりバンドは一気に有名になり、1990年代以降のロックに絶大な影響を与え、しばしばオルタナティブ・ロックシーンにおいて『ニルヴァーナ以降』という言い方をされる。グランジのパイオニアとも言えるが、自身は双極性障害と薬物により苦しむ。また、ファッションでも後進に大きな影響を与えており、カートの亡くなった後、彼が穿いていたボロボロになったジーンズに古着のネルシャツ・緑のカーディガンなどはニルヴァーナや音楽のジャンルとしてのグランジを好きな層以外からも、当時の流行としてグランジ(薄汚れた)と呼ばれる新しいファッションの定義として生まれた。「グランジ・イズ・デッド」と書かれたTシャツや、ダニエル・ジョンストンのイラストがプリントされたTシャツ等は、彼が着ていたということで有名になる。
<暗殺説>
カートの死について、自殺ではなく実は暗殺されたと言う説もある。この話の発端は、カートが行方不明になった時コートニー・ラブに雇われた私立探偵トム・グラントが主張したことに始まる。トム・グラントによると、妻であるコートニー・ラブと子守りアシスタントのマイケル・デウィットがカートを暗殺したということである。
コートニーの動機としては、金銭的な問題だと指摘されている。当時、コートニーはカートと離婚調停中であり、もしカートと離婚することになれば何億ドルという資産が失われることになる。実際にコートニーはこのことに言及しており、その内容はテープに残っている。また、カートが失踪する前、ローマ公演後に自殺未遂をおこしたとされるが、そこにコートニーと離婚したいと言った内容のメモが残っており、コートニーがそのメモを処分したということをトム・グラントはコートニー自身から聞いている。また、後期のカートは音楽活動に嫌気がさし活動をやめたいともらしていたこともあり、自己顕示欲・成功欲の強いコートニーとしてはカートの隠居や離婚により莫大な資産を失うということが耐えられないために、子守アシスタントでコートニーの元恋人であるマイケル・デウィットと共謀して行なったとしている。
この説は、カートの遺書が死について言及をしていない点や現場検証において不可解な点が多数見られることにより世間に広まる結果となる。しかし疑惑に対する進展がほとんどない。